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テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル) text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

懐かしさがある場所で

 サウジアラビアで行われたACLEファイナルズ。

 約6万人のアウェイチームの大音量による歓声は、ドイツでひりひりするようなスタジアムの緊迫感を経験していた伊藤達哉にとっては、自分を緊張させるものではなく、むしろ奮い立たせるものに感じられた。

 準決勝のアルナスル戦で、前半10分に試合を左右する先制点を見事なボレーシュートで決めたことは、多くの人にインパクトを与えただろう。

 前日からシュートの当て感がよかったという伊藤自身にとっても、あのゴールは「自分の殻が破れた…というわけじゃないですが、何かひとつ自分を変えることができたと思う」と振り返っている。

 この試合で、プレイヤー・オブ・ザ・マッチにも選ばれた。

 夏頃にACLEファイナルズでの戦いを、こう振り返っていた。

「今思い返しても、準決勝のアルナスル戦は、よく勝てたなと思います。それこそ10回やったら勝ち越せないんじゃないかなと。自分たちを下に見ているわけでもないし、相手を上に見過ぎているわけでもないですが、そういう相手だったなと思います。だからこそ、そこで勝てたのは大きかったし、なおさら決勝が本当に悔いが残るというか、もったいなかった。あっさり負けすぎたなと思います」

 サウジアラビアでの戦いの中で、ふと、どこか懐かしい空気を感じたのは、中東の地が自分自身のサッカーキャリアの転機になった場所だったからかもしれない。

 伊藤がドイツへ渡ることになった転機は、柏レイソルアカデミー時代の高校2年生の4月に訪れていた。

 UAEで開催されたアル・アイン インターナショナル チャンピオンシップに柏レイソルがU-17で編成されたチームで参加。この大会で柏レイソルは準優勝し、伊藤達哉は大会MVPに選ばれている。

 ハンブルガーSV(ドイツ)、浦項スティーラーズ(韓国)、ベンフィカ(ポルトガル)、マンチェスター・シティ(イングランド)、アル・アイン(UAE)、UAE U-17代表、柏レイソルの7チームが出場。

 当時、チームを率いていた前嶋聰志(現アル・アインFC U-15監督)によると、「欧州や中東の選手たちは、達哉のスピードについていけず、何度も左サイドから突破していた」という。そのグループリーグ2戦目で対戦したのが、ハンブルガーSVで、伊藤はこの試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる活躍だった。

 オファーが来たのは、その対戦相手だったハンブルガーSVからだった。

 その後、練習参加を経て、国際移籍が可能となる18歳になるのを待って、高校3年の夏にハンブルガーSV U-19に加入した。

 伊藤が海外サッカーを頻繁に観るようになったのは、中学生の頃からだったという。

「当時、地上波であまりJリーグを放送していなくて、海外サッカーは自宅で観ることができたので、すごいおもしろいなと思って観ていました。とくに観ていたのはプレミアリーグで、当時チェルシーにいたアザールはその頃から好きでした」

 自然と、海外でサッカーがしたいと思うようになった。

 だから、欧州へ行くことは、「即決。両親にも先に相談しなかった」という。

「“これは絶好のチャンスだ”とも思っていなかったというか、“普通に”決めた感じです。同い年の18歳でプロになる選手もいるので、このチャンスを逃さないぞ、とかではなくて、近道か遠回りかわからないけど、海外に行きたいと普通に決めました」

原点とドリブル

 原点を遡ると、伊藤達哉がサッカーを好きになったキッカケは、4歳の時にテレビで観た2002年の日韓ワールドカップだった。

「GKをやってみたい」と言うと、翌日に両親がキーパーグローブとサッカーボールをプレゼントしてくれた。

 それからは、家の前でひとりボールを蹴ることが楽しくて仕方がなかったという。

 「壁に当てるようにボールを蹴っていたんですけど、その壁をボールが超えると、長い階段を下りていかないといけない構造だったので、『危ないから下に降りてはダメ』と言われていました。だから、ボールが壁を超えて下に落ちてしまったら、そこで終わり。最終的にはボールが5個に増えていたので、その5個が壁を超えるまで蹴り続けていました。壁に蹴って、戻って来たボールを自分でGKを真似てキャッチしたりもしていましたね」

 小学生になると町クラブでサッカーを始めて、その後、チームメイトの友人たちに誘われて10人ほどで柏レイソル育成組織のセレクションを受けに行くことになった。最終まで残ったのは伊藤ひとりで、合格して、小学4年から柏レイソルアカデミーに所属することになった。

 柏レイソルに入ってからも、フィールドプレイヤー以外にも、本人の希望でGKの練習を続けていたというのも伊藤らしさが垣間見える話だった。

「フィールドの練習をする前にGKの練習もしていたぐらいGKも好きでした。当時のジュニアのコーチが理解がある方で、僕の気持ちをわかってくれて、どのタイミングでフィールドだけになったか覚えていないんですけど、僕の気が済むまでGKの練習もしばらくの間やらせてくれたことはありがたかったです」

 GKが好きだった理由を自分で分析してみると、「GKだけユニフォームの色が違ったり、手が使えるという違いがカッコよく見えた」から。

「僕の性格なのかもしれませんが、例えばバンドだったらドラムがやってみたい。人から事前に『こうだよ』と前評判であまりよくないことを聞いたとしても、自分で判断したいし、自分がいいと思ったらOKで、あんまり人の意見だけで左右されないタイプなのかなと思います」

 当時の柏レイソルU-18は、伊藤が高校2年生の2014年に、プリンスリーグからの昇格初年度で、ポゼッションやパスサッカーを展開し、プレミアリーグEASTで優勝をしている。1学年上にはキャプテンの中山雄太、上島拓巳、手塚康平、伊藤と同学年にはGKの松本健太、1学年下には古賀太陽ら何人もの選手が、その後プロになった。

 チームの明確なスタイルがあったなかで、伊藤は、ドリブルという自分の武器をとことん磨いていたという。

「中2ぐらいでトップ下からサイドハーフになって、明らかに自分でも合っていると思ったし、ドリブルで相手を抜くという特徴が明確になりました。高校時代は、ドリブルに特化して練習した方がいいだろうという確信があって、練習後に毎日1対1のドリブル練習をひたすらやっていました。1学年上の(上島)拓巳くんがチーム内で一番強いディフェンダーだったので、毎日つきあってもらって1時間ぐらいやっていました。僕は自分の武器が欲しかったし、それがドリブルだと思い、大事なスキルだと思っていました。今思えば、チーム戦術があるなかでドリブルばかり練習していた僕に、当時監督だった下平(隆宏)さんが、『タツヤ、止める、蹴るの練習もやれよ』と言いつつも、止めるわけでもなくやらせてくれていたし、試合にも使ってもらっていたことはありがたかったなと思います」

 当時の伊藤を知る前嶋聰志が振り返る。

「達哉とは中学生から高校生にかけてコーチとして一緒に過ごしました。昔からすばしっこくて、ドリブルが得意で、身体は小さくて強さはなかったですが、サイドアタッカーとして、いつもドリブルで仕掛けていました。U-18時代は、システマチックな戦いをチームがしていたなかで、独特なドリブルが武器だった達哉の存在は、間違いなくアクセントになっていたと思います。

 思い出されるのは、ピッチ内外でたくさんサッカーの話をしたことです。当時のレイソルU-18は、組織的で選手一人ひとりの役割が、ある程度明確な戦いをしていました。一方で達哉は、とにかく自分のドリブルをより高めて活かしたい気持ちが強くありました。コーチとしての私は、チーム戦術を伝える役割も当然ありますし、達哉に対して戦術的な角度からドリブルを活かすアプローチを私なりに伝えようと努めていました。そのため、いつもふたりで問答のような会話をしていました。高校生の達哉に対してどうしたらもっと知見が広がるだろうかという想いを持って接していましたが、今思えばですが、“伊藤達哉”の強みだけを、突き抜けるぐらいに推し進めた方が良かったのだろうかと指導者として葛藤を感じることもあります。

 達哉は、卒業を前に海外に行くというキャリア選択になりましたが、所属クラブやご両親を始め、周囲からの理解があったなかで、彼自身の意志で決めて掴んだことです。一緒に戦った大会で、彼の価値が認められて、将来につながったことは私もうれしかったです」

18歳の挑戦

 こうして18歳でドイツに渡り、ハンブルガーSV U-19に加入したが、加入後2ヵ月もすると、元から違和感があった膝の故障により、そこから治るまで約8か月を要することになった。当然、サッカーだけでなく現地の人や生活に適応するためには言語を学ぶ必要もあり、18歳が乗り越えるには、簡単ではない状況だったように思える。

「そうですね。今から思うと、さすがに落ち込んだこともあるし、不安にはなっていたと思います。当時、最初から8か月かかるとわかっていたわけじゃなく、痛みがなかなか取れず、いつ治るかわからないままリハビリを繰り返して時間が過ぎていったので、これはいつ治るのだろうかと思っていました。その期間は、ドイツ語の勉強を頭がいっぱいいっぱいになるぐらいやりました。学校で1日5、6時間マンツーマンで勉強するんですけど、俺、どうなるんだろうって考える余裕がないぐらい疲れるまで勉強していたのは逆によかったのかもしれないです」

 日本語を介さず、ドイツ語と英語を使って学ぶ手法だったため、最初はまったくわからないところからスタートしたという。

「例えばですけど、コーヒーが置いてあったら、先生が発したドイツ語が『コーヒーのことなんだな』ってわかるから、それをノートに書くというところから始めました。僕は英語もそもそもわからないから、全部わからないんですよ。だから、最初は本当に大変でした。辞書を引いたり、少しずつドイツ語と英語を理解しながら、ノートに書くことの繰り返しでした。半年ぐらいすると、住んでいた寮でチームメイトたちがする会話が少し聞き取れるようになったかなという感じでした」

 そうして1年目はU-19、2年目はツヴァイテ(セカンドチーム)に所属してドイツ4部リーグでプレーし、トップチームでの練習にも参加するようになる。大きな転機が訪れたのは、3年目となる2017-2018シーズンのことだった。

 ついにトップチームでデビュー戦を迎え、その活躍により、複数年の契約延長にもつながっていく。

ヒリヒリする戦いの舞台で

 伊藤がブンデスリーガでデビューしたのは、第6節のアウェイレバークーゼン戦だった。 

「強烈に覚えています。残り数分で出て、レバークーゼンの攻撃が自分がイメージできないぐらいに体感として速かった。とんでもないレベルだなとインパクトを受けました」

 だが、次のホームゲームでは、伝統の北部ダービーとも言われるブレーメン戦で先発出場。足が攣るまで全力でプレーをし、伊藤が交代出場してピッチを後にする時には、サポーターからスタンディングオベーションが送られたという。

 当時、チームは苦しい戦いが続いていたこともあり、伊藤の登場やプレーがチームを救う場面もあり、何より本人は与えられたチャンスを掴み取ろうと必死だったという。

「チームが負けていた時期でもあって、練習から絶対にこのチャンスは逃さないと思ってギラギラしてアピールもすごくしました。それで監督も、使ってみようとなった。練習ではやれていたので、やれることを精一杯やろうと思って試合には臨んでいました」

 ドイツサッカーの古豪チームの一員として、サポーターも含めて認めてもらわなければというプレッシャーはあったのだろうかと想像すると、答えは違った。

「そういうことを考える余裕はなかったです。もう、ピッチの中だけに集中していました。周りにお客さんやサポーターはいるけど、一回全部を気にせず、(ピッチの)中だけ。何なら、自分の目の前にいるマッチアップする相手だけに勝とうと思って集中しました。認めてもらおう、とかまで考えていなかったですね」

 歴史があるブンデスリーガの中で、2部に降格したことがなかったハンブルガーSV。スタジアムには、その歴史を刻む有名な時計があり、約54年という刻んだ時を止めてはいけないと、当時所属する選手たちや、伊藤が世話になったという日本人でキャプテンを務めていた酒井高徳選手には、かなりの重圧がかかる状況だった。

「正直に言って、当時、僕は若かったし、プレーもよくて、自分のキャリアを振り返っても高いレベルで活躍していた時期だったので、チームを背負うようなプレッシャーは感じていなかったです。むしろ、自分はプレーで引っ張っていると思っていました。でも、年齢が上の選手や、ましてや高徳くんはキャプテンで、本当にものすごいプレッシャーがあったと思います。高徳くんは、本当にプロフェッショナルな人で、練習への取り組み方や向き合い方は、自分からも聞いて話を聞かせてもらったし、背中を見ていれば伝わるのですごく参考にしていました。僕も若くしてひとりでドイツに行ったので、どこにでも連れていってくれて、本当にお世話にもなりました」

 結果的に、その年、ハンブルガーSVは2部に降格することになったが、伊藤にとってはプロデビューしただけにとどまらず、選手個人のキャリアとしても、重要なシーズンになった。

欧州での日々

 欧州で過ごしたのは、18歳から約9年半。その間のキャリアは、「いろんな意味でターニングポイントもあったし、それが自分にとってよくない方向に出たこともあったと思います。理不尽だなと思う経験もしてきたし、そういうなかでサッカーを続けてきた」という。ただ、どんな時でも、自分に向き合って自分の成長に矢印を向けてきた。

 ハンブルガーSVでのプロ2年目のシーズンは、2部降格はしたものの、背番号も11を与えられ自分に対して期待する気持ちが大きかった伊藤だったが、2部リーグでの戦いに適応するのは、難しさもあったという。

「移籍の話もありましたが、クラブからも必要な戦力とされていたし、自分でも残るつもりでした。その時、自分は2部がどういうリーグなのか知らなかったのですが、実際は1部との違いや差は大きいものがありました。言い方が難しいですが、別のスポーツに感じられました。芝もかなり悪いし、つなぐサッカーではなく、ロングボールやセカンドボールを競って、ガツガツ蹴り合うような内容のサッカーが多かった。そうなると、集まる選手たちも技術に優れたタイプよりも、足がものすごく速いとか、競り合いや球際がめちゃくちゃ強いというどちらかというとフィジカル面で突出した選手になる。僕自身は、当時は今より体の線も細かったし、1部のサッカーの方が自分には合っているし活躍できると感じました。これは環境を変える必要があるなと感じ始めていました」

 めざしていた東京五輪に出るためにも、試合に出て活躍したいという思いがあった。そこで、2019年8月にベルギー1部リーグのシントトロイデンへの移籍を選択する。

 シントトロイデンには、移籍前に主戦場としていた左ウイングで自身が活かせるポジションでプレーすることを想定していたが、2年半の在籍期間中、監督が何度も交代するなかでウイングを置くシステムが採用されなかったことがほとんどで、試合に出るチャンスを掴むことに困難が生じる期間も長くあったという。

「例えば練習試合で、サイドハーフで出てゴールを決めたとしても、シーズンが始まると3バックに戻り、僕が出るポジションがなくてメンバー外になるということもありました。一度、シーズン前の練習試合で4-3-3のシステムで僕が入り、ゴールを一番決めていて、直近の練習試合でも2ゴール決めていた状況で、ひとり多く帯同していたなかで、当日外れるひとりが僕だったということもあって、それは衝撃でした」

 そういう困難な状況に直面した時、どうやって自分を保っていたのだろうか。

「(試合に出られず)もったいない時間もあったと思うし、苦労も多かったなと正直思います。でも、自分の中では、絶対に俺の方がいい選手だって思っていました。試合に出ている選手よりも、俺の方がって。だから、試合に出られないことがあっても、チャンスが来るまで絶対に練習しようと思っていました。でも、海外でやっていれば、そういうこともあると思います。例えば、(三笘)薫も最初にベルギーに行った時には、ウイングバックでトライしていたし、一番やりたいポジションではなかったかもしれないけど、その環境でやっていたんだなとか想像します。もちろん、移籍する選択やタイミング、状況などいろんな要素や判断もあると思います。ただ、言えることは、どういう状況でも、腐ることなく筋トレもめちゃくちゃしたし、練習もすごいしていました」

 以前に伊藤がこんな話をしていたことがある。

「結局どこの国にいても、どの環境にいても、自分の行動を決めるのは自分。例えば、筋トレでもストレッチでも本当に自分がやった方がいいと思うことをいかに続けられるか。周りに流されずに自分にとって意味のあることを日々どれだけできるかが大事で、それがいざ試合や大事な局面で、自分を信じられるかどうかにつながると思っています。自分のこれまでを振り返ってみると、もちろん運は絶対にあったと思いますが、大事な場面で、日々の努力が本番の自分への信頼になったし、他の人が知らなくても最善の努力をしてきたと自分に言えることが僕にとっては大事だと思っています」

 2022年を迎えると、再びドイツでの生活が始まった。

 1.FCマクデブルクへ移籍し、3部で首位を走るチームに合流し、チームの2部昇格に貢献し、川崎フロンターレに加入するまでの時間を過ごした。

 ハンブルガーSV時代にも縁があり、結果的に約9年半の欧州でのキャリアで最も多くの試合を共にすることになったティッツ監督の元で再びプレーをするという巡り合わせもあった。

 2部で迎えた1年目のシーズン(2022-2023)は、とくに後半戦で2部残留に貢献する活躍で、途中出場でゴールやアシストで結果を残し、手応えもあった。そのため、翌シーズン(2023-2024)は伊藤自身、満を持してスタメン出場を望んだが、伊藤の能力を認めていた監督は、なおさら“切り札”として途中出場での起用にこだわった面もあった。信頼され、期待されている結果を出していたが故のことだが、ゴールという結果を出しても、試合の流れにより、“ここ”という場面で投入されるため、プレー時間は限られる。

 年齢や、自分のプロキャリア、選手としての価値をどうあげていくべきなのかを真剣に考えるなかで、移籍して環境を変えることを決断する。

 マクデブルク在籍中には、結婚をし、子どもが誕生するというライフキャリアの変化もあった。

 サッカーという戦いの場がある一方で、プライベートな時間を充実させ、癒しとなる時間もあったのだろうか。

「家に関しては、安らげて広いところに住もうと思って、そうしていました。ドイツにいた時に猫を飼ったり、好きなゲームをやったり日本のテレビを見たり、家では落ち着けて過ごせるようにと思っていました」

 2度目のドイツでの日々をこう振り返る。

「自分としてもスタメンで出たいし、長い時間試合に出ることで自分も成長したいし、その方が結果がさらに出せるという自信もありました。途中から出てゴールを決めても、ジョーカーとして次の試合も途中からということが続いていたので、次のキャリアを考えるようになりました。以前は、1部と2部では、芝のこととかプレースタイルの違いがあって自分には2部は合わないんじゃないかと思っていたところもありました。でも、僕自身が経験も積んできていたなかで、やれるんじゃないかという自信も生まれていました。ドイツ2部でも力のあるチームはあったし、つなぐスタイルのサッカーをするチームもあったので、そういうクラブでも自分のプレーを試して、そこからステップアップするということに挑戦してみたかったなという想いも正直ありました」

 キャリアを振り返ってみると、転換期となったハンブルガーSV時代、最終節に2部降格が決まったクラブにとって歴史的な試合にも、伊藤はピッチに立っていた。

 ホームで迎えたボルシアMG戦でスタメンで出場していた伊藤は、アシストでも貢献し、チームは勝利したが、同時刻の他会場の結果により降格が決まり、試合終了までの間には、発煙筒が投げ込まれ、警備員が出動し、試合が一時中断するなどし、1963年のリーグ創設以来初めての降格という状況にスタジアムは騒然となった。

「当時、歴史上降格したことがないなか残留争いをしていて、毎試合えげつないぐらいの雰囲気と緊張感のなか、負けたら降格するという緊張感のなかでプレーしました。そのなかで自分がいいプレーをして活躍できた部分もあり、ものすごい経験を最初にしたなと思います。だから、ACLEファイナルズでも、あのような雰囲気や緊張感があっても、その緊張感を上回ればいいという考えがあり、得意というか集中できる自分がいます」

 そういう緊迫感がある環境でサッカーをしてきた経験から、伊藤の肉体や心に宿っているものは確実にあるだろう。

「自分ではわからないですけど、いろんな経験をして変わったと思います。向こうの選手たちの背負っているものというか、例えばドイツの2部から3部に行くと人生が変わっちゃうぐらいなんですよね。僕のヨーロッパでのキャリアは、うまくいったことなんてあんまりないですよ。でも、ある意味、そういうものだと思っています。たとえ理不尽なことがあっても、それが自分を成長させてくれることもあるし、結果的に移籍を選択したり決断することで好転することもあるかもしれないし、何が成功かはわからないです。ただ、自分でもこれからのキャリアでメリットがあるとするなら、仮定の話にはなりますけど、とくにフロンターレに来る前の数年は、試合の出場時間が短かったシーズンもあったので、その分、まだまだこの先もフィジカル面で長くプレーできるんじゃないかという期待が自分にすごくあります。

 それに、以前は自分で筋肉のことを調べて筋トレなどもほぼ独学でやっていましたが、2年ぐらい前からパーソナルのトレーナーについて、そこからフィジカルは爆発的に成長したと思います。もうちょっと早く出会っていたらなとは思いますが、明らかにスピードが速くなったし、フィジカルコンタクトにも強くなったし、コンタクトする技術もあがったなと思います。

 だから、これは僕自身が自分に対して勝手に思っていることですけど、これからどこまでやれるか楽しみなんです」

ウインガーとして

 そして、2025年――。

 伊藤達哉は、川崎フロンターレに加入した。

 こうして、欧州での日々を振り返ってみると、加入した段階で、気持ちの面でもフィジカル面でも、技術も経験も、あとは、表現する場があれば、出すだけだという準備は整っていたと言えるだろう。

 左サイドを主戦場としてきた伊藤だが、2025年はフロンターレで右サイドのウイングとして出場機会を得る。開幕前に「右でもちゃんといい選手になりたいから、今は勉強中です」と話していたが、ドイツとJリーグという戦うカテゴリーの違いに適応しながら、無意識に身体が反応していた左サイドから、まったく逆位置になる右サイドで、思考しながらプレーの感覚を養う日々を過ごしていた。

 ゴールを重ねたことについては、理由やキッカケとなる出来事はいくつかあるだろう。

 伊藤が明かしている理由のひとつに、右サイドにいながら自分の後ろに脳内で架空の左タッチラインを横向きに引くことで、疑似的に左サイドの時のように相手のサイドバックとの“間合い”を作り出し、そこから先のカットインや縦への突破などの際に、そのプレー感覚を掴むことに成功した、というものがある。

「サイドが変わると、僕みたいなタイプは、微妙な間合いで変わっちゃうところがあるんです。左だったらボールの置き所とかもらい方、試合中に起こるすべてのことが身体に染みついているから無意識にわかるんです。でも、それが右になると相手との間合い、パスをもらう前の身体の向きとか、全ての動きが微妙に違うので、やりづらいというか気持ちよくないんです。

 だから、線を引くことを試すまでは、ずっと試行錯誤していた感じです。抽象的な言い方をすると、答えを探しながら、いろんなことを自分でやっていました。そのなかで、この考え方だったら自分にとっていいかもって、ちょっとずつ考え方がまとまってきて、それをやってみたら今日はよかったなと自信がついてきたし、慣れてきた感じです。試行錯誤していた時期は、右サイドで活躍できた試合があっても、気持ちよいプレーができていたわけではなかったり、ラッキーだったなと感じるところもありました。それが、やっぱりこれだなという感じにだんだん変わってきました」

 6月14日、雨天の横浜FC戦(第20節)で、「右サイドを続けるのは難しいかもしれない」と感じたこともあったが、トレーニングの中でそのコツを掴みかけ、「考え方を思い切って変えた」翌節のヴィッセル神戸戦で、手応えを掴んだ。

 そこからは、7月から11月の5ヵ月間で、リーグ戦15試合で11得点、カップ戦も含めると19試合で14ゴールを決めた。

 ゴールを重ねていく伊藤に対して、「好調」という表現も多く使われるようになったが、突発的な変化や目覚めがあったわけではなく、むしろ、それがアベレージの状態になっていったという方がしっくりくる。

 様々な要因、溜めていたものを出せる場所があること、フィジカル強化の成果、Jリーグへの慣れ、試行錯誤して掴んでいったもの。あらゆる要素を自分の中に落とし込んで、それを出力した結果なのだろう。

「好調と言われるけど、ここまで続いているのであれば、好調だからではないんじゃないかなと思っています。サイドの選手なので、いいプレーはできているかもしれないですけど、全体が見えているとかそういう感じではないです。シュートに関しては以前から“うまいよね”と言われてきたことだし、その瞬間瞬間で、自信はあるというか。Jリーグと右サイドというふたつのことに慣れてきていることは確かだし、いろんな要因があって、そういうものがコンスタントに出てるのかなとは思います。

 点を続けて取れていたことについては、“ゾーン”に入っていたという感じではないです。ドイツにいた最初の頃、ものすごい集中してプレーしていた時は結果を出さなきゃという焦りがあったこともありました。今は、そういう焦りがない分、力みがないというか、普通にやれているのかなとは思います」

 シーズン途中に、そんなことも言っていた。

 その一方で、伊藤自身も感じている明らかに変化したマインドがある。

 自分自身の殻を破った試合として、8月23日第27節アウェイの名古屋グランパス戦をあげている。伊藤の先制ゴールも含めて3対3で迎えたアディショナルタイム90+5分に、この日2ゴール目となる決勝ゴールを決めてみせた。

 それは、試合の勝敗を左右する、チームを勝たせるゴールを意志を持って決めたものだった。

 そして、それを成し遂げようと思って成功させたことが自信になった。

 「名古屋戦に関して言うと、チームとしても殻を破りたいというなかで、自分自身がゴールを決めて勝たせた。今までだったら誰かが決めてくれればいいという気持ちが多少なりともありましたけど、その時は、終盤追いつかれて厳しい状況のなかで、ここで決められたら自分の殻を破れる気がするなと思ったし、実際にそうなれた感覚がありました」

 そこからは、より自分自身に矢印を向けて、ゴールやアシストという結果でチームを勝たせる。そういうメンタリティで過ごすことで、以前の自分にはなかった心持ちを自覚し、成長を感じることもできた。

 伊藤は、自分軸がある人だ、と思う。

「結局は自分を信じられるかどうかだと思うので、自分に問いかけて、それまでの自分自身の行動に対して信じられるに値していると思えれば大丈夫なんです」

 そして、1年間の活躍が評価されて、ベストイレブンに選出された。

 Jリーグでのキャリアを経ずに18歳からの約9年半を欧州で過ごし、自身初めてのJリーグの舞台で、周囲から認められる形でベストイレブンに選出されたことは特筆すべきことだろう。

 アカデミー時代、柏レイソルで共に過ごした選手たちや、欧州時代、共にプレーした選手たちとJリーグで対戦するというシーンも、観る者の楽しみになっているはずだ。

 これから先のキャリアについても、異色の経歴を歩んできたからこそ、向上心を持って取り組むなかで、どんな未来があるのか本人も私たちも楽しみがある。

 12月11日には、ベストイレブンの表彰があり、「来年はチームを勝たせて、タイトルを持ってくるような選手になっていきたい」と話していた。

 佇まいもプレーも、オリジナリティ溢れる存在感を発揮して、2026シーズンは川崎フロンターレの伊藤達哉として、どんな姿をみせてくれるのだろうか──。

profile
[いとう・たつや]

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マクデブルク(ドイツ)より完全移籍で加入。瞬発力やドリブルテクニックが武器のサイドアタッカー。柏レイソルの育成組織からハンブルガーSV(ドイツ)でプロのキャリアをスタートさせ、シント=トロイデンVV(ベルギー)、マクデブルクでプレー。2025年より自身初となるJリーグでのプレーを選択し、フロンターレの一員となった。

1997年6月26日、東京都台東区生まれニックネーム:タツヤ

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