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ピックアッププレイヤー 2025-vol.05 / 高井幸大

高みをめざし、チャレンジする人へ

テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

フロンターレアカデミー出身、クラブ史上最年少でのプロ契約をした高井幸大選手が、

プレミアリーグ、トッテナム・ホットスパーに移籍した。

「フロンターレで選手としても、人としても成長」した10歳から20歳までの約10年。

持っていた潜在能力が本人の努力や経験、周囲との関わりの中で顕在化していくと、成長スピードはさらに加速した。

一度しかないサッカー人生、上へ上へと高みをめざす高井の冒険は、続く。

旅立ちのセレモニー

 高井幸大が、この夏、フロンターレを離れ、プレミアリーグの強豪、トッテナム・ホットスパーに移籍した。

「ビッグクラブだったので行きたい気持ちと、試合に出られないかもしれないということも考えましたが、チャレンジしたい気持ちの方が強かったです。小さい頃からヨーロッパのサッカーを観ていたので、憧れの舞台だったし、そのチャンスを得られたことはすごくうれしいです」

 高井がフロンターレのアカデミーのセレクションを受けたのは小学4年9月のことで、5年生を待たずに練習に参加。U-12の頃からなりたいと思っていた、フロンターレでプロ選手になるという夢を叶えた。

「小さい頃から親にチケットを買ってもらって、等々力に試合を観に行ってたサッカー少年でした。だから、大人になってプロサッカー選手として等々力でサッカーができたことは、すごくうれしかったです」

 7月5日対鹿島アントラーズ戦後のセレモニーでのスピーチは堂々としていた。サポーターから拍手をもらっている間は待っている落ち着きがあり、しっかり自分の言葉を届けて挨拶をする高井は、清々しく、いい表情をしていて、そういうところからも彼を知る人たちは成長を実感していた。

 出会った頃は、コーチたちの方が背が大きかったが、元々身長が高かった高井は、高校生の頃には190cmを越えていた。

 花束贈呈をされ、高井が屈んで目線を合わせて満面の笑顔で写真に納まるその様子からも、心身ともに成長したことを指導者たちは感じていた。

 玉置晴一 U-15等々力監督は、高井が10歳でフォワードとして加入した後、将来を見据えてすぐにセンターバックにコンバートし、U-15、U-18とその成長を見守ってきた。

「加入した小さい頃から関わって見てきたなかで、いずれは(海外に)行くだろうなと思ってはいたので、うれしい気持ちと小さい頃のことが思い出され感慨深い気持ちです。アカデミーの頃から、大きいチャンスを掴んで成長してきた選手でした。やらなきゃいけない時に力を発揮してきた姿も重なりました。今の頼もしい姿を見ると、アカデミー時代は、少し迷いもあっただろうし、ちょっと自信がないように見える時もありました。いつも猫背になっていたので、『胸を張って、自信もってやれよ』とよく言ってました。自分が中心になってやらないといけないという自覚が芽生えた時に、持っていた力が大きく広がっていったというのは、彼自身もすごく頑張ったんだなと思います」

 U-15監督、U-18監督として中学2年から長い期間関わり、2025シーズンはトップチームで再び一緒になったのが長橋康弘ヘッドコーチだ。

「とうとう行っちゃうんですね。正直な気持ちは、寂しいですね。今年はトップで一緒になり、彼の成長スピードの、ものすごい速さに驚かされていました。試合にコンスタントに出て安定したパフォーマンスが出せるようになって、もちろん日本代表での経験もあるなかで、チーム内でも自分がやらなきゃという気持ちの成長がすごく見えたし、感情が表に出て表情が豊かになりましたよね。とくに、シゲさん(長谷部茂利監督)との出会いも大きかったんじゃないかと私自身は感じるところがありました。隣にマル(丸山)という存在がいたことも。彼と組んでいるなかで、声だったり、トレーニングやミーティングを通じても守備のことが頭の中で整理できた部分があったんじゃないかなとすごく感じました」

 高井のU-12時代を知り、U-18ではディフェンダーとしてのスキルを指導し、今年トップチームで再び一緒になった佐原秀樹コーチは、センターバック出身かつフロンターレを知るからこそ、こんなことを感じたという。

「試合に勝ったこともそうだし、送り出してもらう日にあいつは持ってるなと思いました。サッカーの神様を味方につけられる何かを持ってるんじゃないですか。今年は、ずっと出ていたなかで、ミスもありましたけど、若い選手はとくにそういうなかでもチャンスをもらったり、信頼して経験を積ませることで成長していくんだなと感じました。コウタもリーダーシップ含めて試合の中で力を発揮して、成長速度が速かったなと思います」

ポテンシャルと努力で乗り越えてきたもの

 小学5年生からフロンターレアカデミーに加入した高井は、3、4年生から所属していた選手に比べて最初は技術的にはまだ苦手な部分もあり、課題としていたリフティングを公園で練習することもあった。

 初めて年代別代表に選ばれたのは、U-15の時。「意外と俺ってできるんだ」と感じたし、子どもの頃から、サッカー選手になれるんじゃないかと「不思議と」自分を信じる気持ちは持っていたという。

 センターバックとして育っていくなかで、「対人が苦手」で「1テンポ遅れる」と課題を感じながらプレーしている時期もあった。

 U-18は、高校1年から3年生まで一緒のチームで活動するため、身体能力の差から高井のように1年生の時に「思うように体が動かない」と、実際以上に感じる選手は多いという。

「身体が大きい分、それを支える筋力が足りていない成長過程では、苦手な部分が出てくるのは当然です。本人は中学から高校生にかけて、身体がもっと速く動いたらいいのに、と感じていたかもしれませんが、我々指導者は『大きい割に身体が動く』という、いい意味の違和感を彼にはずっと持っていました」(長橋)

 U-18 GKコーチの浦上壮史は、GKに必要な俊敏な動き、ジャンプやステップワークなどを現役時代のメニューも取り入れてトレーニングを行っている。“Gトレ”(通称ガミトレ)と呼ばれているトレーニングだが、成長過程の選手たちにとってはキツくもあり、後に振り返ってそれがあったから、体が動くようになったと感謝する選手も多い。高井もGトレに招集されていたメンバーだったという。

 アカデミーとしてトップチームに昇格できるプロ選手を育てる大きな目的があるなかで、高井は早くからそういう資質があると見られてきた。

「高井はセンターバックでしたが、プレーエリアを広くカバーできるよう成長してほしかったので、例えばサイドバックの後ろのスペースのカバーリングをすることも覚えてもらいました。守ることを最優先にすれば、ゴール前にいた方がチームとして強固になりますが、それが行かなくていいという理解になってしまうと、プロでやっていく上での判断に関わることになる。長いボールを供給できることは武器にもなるので、右のセンターバックの位置からすっとボールを運び出して、逆サイドの前方に位置させた選手に、ひと振りで蹴れるようにトレーニングの中でやっていました」(長橋)

 高2の夏にトップチームで練習参加し、3年からは合流させたいとアカデミーの責任者である山岸繁育成部長からの話があった時、当時の鬼木達監督が「だったら、早いうちから参加させればいいじゃないですか」という意見で、竹内弘明強化本部長も同様の意向だったため、プロ契約がスピード感を持って進んだ。2022シーズンの始め、マレーシアでのセントラル開催となったACL遠征に帯同し、第2節広州戦で交代出場して、17歳でプロデビューを果たした。

 まだ高井幸大が18歳になる少し前、2022年7月に国立で行われたメッシやネイマールを擁するパリSGとの親善試合のこと。

 ベンチで試合を観ていた高井は、「早く、俺を出してくれー」と思っていた。子どもの頃から大一番にも強いタイプで、このときも楽しみな気持ちしかなかったという。それだけでなく、「あの18歳は誰だ?って名前を知らしめようと思ってました!」と高井らしい発言もしていた。

 その年はトップチームの練習に参加しながら、週末はU-18の試合に出場するというサイクルで過ごした。最初は、周囲の選手が「上手すぎる」と驚き、ダミアンを始めとするフォワードと対峙することに課題を感じていたが、少しずつスピードに慣れてきて、必死にやるなかで1年ぐらい経つと、自分らしさを徐々に出せるようになってきた。

 センターバックの先輩たちとコミュニケーションを取り、何をしているのか観察して、学んでいきながら、2023年から少しずつトップチームでの試合に出場するようになった。勝つ喜びも失点や敗戦の悔しさもたくさん経験してきた。

「悔しかった思い出はいっぱいあります。基本的に、悔しいので。自分に腹が立つプレーもいっぱいありました」

 育ててもらってお世話になったのは「ヤスさんとオニさん」。

「ヤスさんは、中2ぐらいから5年間ぐらい過ごした年月が長いので、すごくお世話になったなと思います。中学2年の夏から1学年上の試合に出してくれたり、試合に出ることで経験ができて、自分に期待してくれてありがたかったです。オニさんは、プロ選手になった最初の監督なので、プロのサッカーとはこういうものだって教えられたし、個人としてすごく成長したと思います。めっちゃ怒られましたけど(笑)、すごくありがたかったかなと思います。ヤスさんもオニさんもサッカーが好きだし、サッカーの話をたくさんしたし、そういう会話が楽しかったです」

高井幸大 高井幸大

ACLEファイナルズでの戦う姿

 この1年間の高井は、あらゆる経験を短期間で積み重ねた。

 昨夏のパリ五輪にチーム最年少の19歳で出場。その後、9月には日本代表に選出され、二十歳の誕生日の翌日には中国代表との試合で、アカデミーの大先輩に当たる板倉滉に代わって日本代表デビューを果たした。2024年末には、Jリーグアウォーズで「ベストヤングプレーヤー賞」を受賞。今年3月には、ワールドカップ・アジア最終予選サウジアラビア戦でスタメンとしても出場した。

 高井は、自分の立ち位置や相手とのレベルの差など、肌で感じて、「やれる」自信も足りない課題も自分で感じ取ることで成長してきたのだろう。パリ五輪や日本代表も含めて得られた経験は、成長を促すには十分な刺激となり、フロンターレで試合出場を重ねるなかで、周囲からも分かるぐらいに変化していった。そして、今シーズンほぼすべての公式戦でフル出場をするなど、主力としてだけでなくリーダーシップも兼ね備えた振る舞いもするようになっていた。

 印象的だったのは、長谷部監督が「もう十分にリーダーだと思うので、年齢関係なく。育成組織にもいて、長いこと川崎フロンターレに所属しているわけですから」とキャプテンマークを自然な形で託した4月9日横浜F・マリノス戦。

 後半90+10分。土屋櫂大のデビュー戦でもあり、1点リードを許した状況で、CKのチャンスが訪れた。ゴール前から前線に上がっていく高井の姿からは、「絶対に点を獲る」というオーラが漲っており、自らの身体を自在に操って、脇坂が蹴ったボールに引き寄せられるように高い打点で合わせ同点ゴールを叩き込んだ。

 佐原コーチは、こんな風に高井について言及した。

「コウタは以前から、理屈じゃなくて実戦型の選手でした。これが大事だなって自分が感じたことを見逃さずに自分のモノにするタイプで、この経験は活かさないとダメだなって自分で感じられるんだと思います。そういう人間性は変わってないと思います」

 今シーズンの自分自身に対して、高井本人はこんな風に振り返った。

「今年はだいぶ、ひとつ上のステージに行けたのかなと思います。この半年の自分のプレーに対してそう思います。自信とかメンタルが一番の理由だと思います。すごく変わったというわけではないですし、技術とか身体はこの1年でそこまで変わってはいないですけど、もっとやらなきゃいけないという気持ちや責任感と、いいプレーが多くなったことで得られたことが自信につながったと思います。ディフェンダーとしても、昔より身体を早く動かせるようになりました。守備の対応のところはそんなに好きじゃなかったし苦手だと思っていましたけど、今は来られてもやられる気がそんなにしないし、そこは一番成長したかなと思います。守備の引き出しも(長谷部監督に)増やしてもらったと思います」

 そうして、心身が充実した状態で迎えることができたACLEファイナルズ。

 リアクションも多くなる守備において、相手が誰であっても、自分の中で基準を高めたままで、プレーし続けるということは、相当に難しいことだと思う。相手が強い程、高井の本気度も潜在能力も顕在化するという意味で、ACLEファイナルズでの戦いは、選手としての価値を高めたと言えるだろう。

 高井自身にとっても、「あの決勝の景色を忘れることはない」というサウジアラビアでの特別な日々をこう振り返った。

「なんとなくその時点で、自分の能力とかすべてにおいて、この夏には(海外に)行くことになるんだろうなと思っていました。だから、最後のタイトル争いになるのかなと思っていました。そういう意味では、人一倍勝ちたかったと思います。日程的にも不利だったし、対戦相手もすごくお金をかけているチームも多かったし、選手の質も高かったなかで、自分たちが勝ち上がって行くことが嬉しかったですし、決勝も勝ちたかったです。悔しかったけど、決勝の相手は相当完成されてたチームだったし、正直に言ってチームとしても個人としても上回っているところは、ほとんどなかったなと試合をしながらも、ちょっと感じているところはありました。それでもやっぱり、勝ちたかったです」

 決勝が終わり、死力を尽くして、立ち上がれない程に消耗していた高井の姿を見て、何かを感じた人は多かっただろう。

 ACLEファイナルズを終えて一番心に残ったこととして、チームメイトでアカデミー同期の大関友翔は「高井が泣いていて、自分は頭は真っ白で何も考えられず泣いてもいなかったから、泣けるほど高井はやったんだって責任感の差も感じたし、自分はまだまだだなって感じました」と話し、同じアカデミー出身で2学年下の土屋も「あれだけのスーパースターを抑えた中で、決勝で敗れて高井くんが立ち上がれず泣いている姿が一番、ぐっときました。自分もああなりたいし、超えたいなと思いました」と振り返った。そういう影響を与えられたことは、「うれしいですね」と高井も頷いた。

 2023年の天皇杯決勝は、メンバー外でスタンドから試合を観ており、ACLEは準優勝に終わった。願わくば、フロンターレで優勝する高井幸大を見てみたかった。そう本人に伝えると、「本当ですか? それはまた今度(向こうで)っていうことで(笑)」と、次のチャレンジに目を向けたのも高井らしかった。

フロンターレから世界へ

 記憶に新しい2025年のACLEファイナルズ以外だと、印象に残っている試合は、J1リーグでのデビュー戦となった2023年4月15日第8節名古屋グランパス戦なのだという。

「名古屋に負けたんですけど、その試合で何も掴んだわけではないけど、『行けるな、やれるな』って思ったので。自分の肌感とかリーグのレベル感とかも練習試合だけではわからなかったこともあったので、入りとしてよかったのかなと思います」

 前述したように、自分の肌感覚で大事なことを掴んできた高井は、これまでもJ1リーグ、パリ五輪代表、日本代表と、その時々で初めての経験にも果敢に飛び込み、緊張感すら楽しめるメンタリティが備わっている。

 今回の挑戦についても、こんな風に言っていた。

「とりあえず、スタメンで出ることが一番の目標です。レベル感もわからないし、自分がどれぐらいできるのかも分からないので、まずは1試合に出て肌感で感じてからだな、と。スタートラインに立たないとなと思います」

 登里享平から受け継いだ、フロンターレ伝統の背番号「2」を纏った姿は、今後もクラブの歴史に様々な形で名前を残すことになるだろう。

 トップチームで3年半、トータルで約10年間過ごしたクラブを離れる時が来た。

「不思議ですよね。僕はフロンターレしか知らないので。フロンターレとはクラブの色とかもまったく違うだろうし。フロンターレは攻撃的なチームだったので、いっぱいボールに触れたし、楽しかったです。ファン、サポーターの皆さんには、ホームでもアウェイでも駆けつけてくれて、とても選手たちにとってうれしいことで、いつもありがたいと思っていました。日本にいたいなという気持ちもありますけど(笑)、今のサッカーの最高峰の舞台だと思うので、そこでチャレンジして、そういう選手たちと一緒にやれることは楽しみです」

 2025年7月5日──。

 遅くまで取材対応をし、タクシーが来るのを待つ間、U等々力の写真が撮りたいと高井が言って、入場する時に通る階段を上がってピッチサイドにやって来た。

「(試合後に芝生の)中に入るのはまずい」と言ってピッチサイドを走って、アウェイのゴール側まで行き、等々力全体の写真を自らのスマホにおさめていた。

 しばらくして、スタッフが声をかけて子どもの頃から写真をずっと撮ってもらってきたオフィシャルフォトグラファーの大堀優さんが来て、せっかくだからとピッチ内で写真を撮ろうということになった。高井が「(湘南)造園さん、すみません!」と口に出してから、ピッチに入っていくのが微笑ましかった。

 フロンターレアカデミーで育った選手がトップチームで活躍し、日本代表にも選ばれるまでに成長をした。

 思えば高井がアカデミーに所属していたのは、育成年代から“止めて蹴る”などフロンターレの代名詞とも言える技術を大事にし、アカデミーとトップチームの交流がより深まった時期でもあった。高井が高校3年のときにU-18はプレミアEAST昇格初年度で優勝し、その後はAnkerフロンタウン生田も完成し、申し分ない環境も整っている。高井の経歴は、こうしたクラブの成長の“証”とも言えるだろう。

「我々アカデミーとしては、トップチームに昇格する選手をひとりでも多く育てる目的があります。高井が二十歳で欧州に行くとは当時想像できませんでしたが、トップチームで活躍してほしいと思いましたし、本人の意志もあり、早い方が本人のためになると思って高校2年で送り出しました。もちろんクラブのことを思えばずっとフロンターレで活躍してほしいという気持ちもありますが、時代の流れもあるし、本人の希望もあって決まったこと。彼の活躍がアカデミー生の励みになると思うのでフロンターレ出身者としても頑張ってほしいです」(山岸)

 その先にどんな未来が待っていて、どんな選手になるのか、本人と同じように、私たちもワクワクする気持ちで楽しみにしたい。

 高井幸大の冒険は、まだ続いていく──。

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[たかい・こうた]

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川崎フロンターレアカデミー出身。190センチを超える上背と対人戦の強さを生かしたディフェンスが武器のセンターバック。攻撃の意識も高く、最終ラインから長短のボールを配給しチーム全体のリズムを作る。2025年7月、イングランドの強豪トッテナム・ホットスパーへ完全移籍。

2004年9月4日、神奈川県横浜市生まれニックネーム:こうた

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