vol.02
中村 憲剛Nakamura Kengo
「果てない夢」
フロンターレ創設30周年の節目に中村憲剛が帰還した。
偶然だが、必然のような意味を感じてしまうのは、それが中村憲剛だからと言えるだろう。
“フロンターレらしさ”を体現してきた者として、今、感じることはどんなことだろうか。
スペシャルインタビュー第2回に登場してもらい、フロンターレに対する想いを改めて聞いた。
2026年2月8日のU等々力にて
雪が舞ったU等々力で開幕戦を迎えたのは、30周年を迎えるフロンターレの歴史上で初めてのことだった。
そんな日に、久しぶりに等々力のピッチに立つ者がいた。
2026年1月4日、中村憲剛が、今季トップチームのデベロップメントコーチに就任することがリリースされた。
「現役生活を引退するにあたり次の自身の道を考えたときに、『18年間フロンターレひと筋』という自分の世界の狭さを感じていました。ここからさらなる成長をするためには、クラブの中の活動をしながら自分の知らない・見ていない世界、フロンターレの外でも活動の場を設けてもらうことが必要であるとクラブにお願いをして、『FRO』という役職で外の世界も経験できる形にしてもらいました。
それから5年。指導者として育成年代の現場やライセンス取得、解説者としてメディアのお仕事、普及者として普及活動。多くの方たちとお仕事をさせていただき、多くのことを学びました。
そして、昨年は長谷部新監督になったトップチームをサポートする立場で1年間活動させてもらい、迎えた今年、クラブと話をするなかで「トップチーム デベロップメントコーチ」に就任することになりました。
自分の知らない世界を経験できたこの5年間はかけがえのない時間でしたし、成長することができたと思います。そのすべてをこれからのフロンターレのために発揮できたらと思っています。
よろしくお願いいたします。
2026年1月4日付け公式サイト リリースより
頑張ります」
1年前にも、クラブからコーチ就任のオファーもあったなか、2025年10月に逝去された父の病気療養中だった個人的な事情や想いもあり、2025年はFROを続けながらも、それまでとの変化として現場と関わる時間を設けていた。その背景には長谷部茂利監督を始めとするクラブスタッフの理解が大きかったという。
「シゲさんは、同じ大学(中央大学)、同じサッカー部、同じ寮で過ごした共通項があるんですね。18歳から22歳まで4人1部屋の寮の環境も同じ。父の療養中は、自分の状況や想いを理解していただき、その上で『いつでも来ていいから』と温かく迎え入れてくれ、『フロンターレがこれまで大事にしてきたことを選手たちに伝えてほしい』とも言っていただき、いろんなことを惜しみなく教えてくれ、学ばせてもらい、本当に感謝しています。
今年からは、コーチングスタッフのひとりとして、シゲさんに優勝してもらいたい想いが強いですし、タイトルが獲れるように精一杯サポートしていきたい。昨年は、ACLE準優勝をした後は、リーグ戦、ルヴァンと悔しい負け方をしました。でも、その悔しい負けというのはこれまでも経験してきたこと。だからこそ、積み上げながら選手やチームの目線を揃えてやっていけるよう尽力したいです」
そして、迎えた開幕戦──。
早朝からスタッフや関係者による雪かきによって、U等々力の緑の芝がより一層美しく見えた人も多かっただろう。
試合前のアップで、実際にピッチに立った時に、中村はこんな感情に身体が包まれたという。
「最高だね。こんな中でサッカーができて幸せだよね」
気づけば近くにいた選手に、そう声をかけていた。
「試合に出たくなっちゃいました(笑)。5年ぶりに公式戦での等々力のピッチに立ちましたが、ピッチに立った一瞬で現役時代の感覚に戻ったし、めちゃくちゃワクワクしました。もちろん僕の現役時代とは多少は変わっているところもあるでしょうけど、同じ等々力の景色でした」
違っていたのは、選手としてではなく、コーチとして選手たちのウォーミングアップを円滑に行うための役割があったということ。
その後、脇坂泰斗とパス交換をした後に、大関友翔とも行い、アップが終わり、ピッチを後にする際には、家長昭博の肩に手をまわし、ポンポンと叩いた。
少し不思議な光景でもあり、等々力に戻って来たんだなと感じられるには十分な場面でもあった。
中村憲剛がフロンターレに加入したのは2003年のこと。
1997年のクラブ創設から7年目のことだった。
「まだたった7年しか経ってなかったんですよね。本当にそれが驚きです。当時の自分の感覚として、20年ぐらい歴史があるクラブにいるような気がしていました。もちろん、富士通サッカー部時代からの歴史があったということや自分自身が中学生の頃から、観戦に来たことがあった等々力がホームスタジアムだったことも大きかったかもしれないですね。クラブハウスが“プレハブ”だったことは、正直ガクンとなりましたけど(笑)」
そんな話からインタビューはスタートした。
フロンターレとの出会い
中村憲剛が初めてフロンターレと出会ったのは、20歳になる年のこと。
2000年にフロンターレが初のJ1リーグを戦い、その1stステージでセレッソ大阪が勝てば優勝が決まる状況で長居で迎えた最終節でフロンターレが勝利し、眼前での胴上げを阻んだ一戦のことだった。
「僕が初めてフロンターレを認識したのは、“博多の森の悲劇”ではなく“長居の悲劇”だったんです。テレビで観ていて、『セレッソかわいそうだな』と思ったことは覚えています。その2年後の2002年6月、中央大学コーチ(佐藤健=現テクニカルダイレクター)のツテでフロンターレの練習に2日間参加することになりました。坂道を走って麻生グラウンドに来た時のこととか、鮮明に覚えています。初めてプロクラブで練習したので、当たり前のことなんですけど、天然芝で、トレーニングウェアが揃っていてすごいなぁ(笑)なんて思ったりしました。練習参加前にフロンターレの歴史を調べて、1997年には自分がプレーをよく観ていたベッチーニョがいたんだ、とか、選手権で観ていた『あの市船(市立船橋高校)の鬼木達がいるんだ!』というのも一番のインパクトでした」
2003年にJ2だったフロンターレに加入し、2020年の引退まで18年間をワンクラブマンとして過ごした。
35歳の節目を迎え、2016年に掲げた、40歳での現役引退をめざし挑戦し続けようと決めたその年にMVP(最優秀選手賞)を個人として受賞し、2017年の初優勝から5つのタイトルを獲得した、唯一無二とも言える現役生活の幕引き。そして、引退セレモニーで「中村憲剛選手の18年は出来すぎでした」と手紙に読んだ12歳だった長男が、全国高校サッカー選手権大会で14番をつけて等々力でプレーをしたということも、引退後に流れた5年という月日を感じさせる要因にもなっているだろう。
そして、クラブの30周年が、人生の節目に重なったことも。
「そうですね。30周年とタイミングが重なったことは正直、自分でも驚いたしゾクっとしました。広報スタッフからも、『ケンゴさんは、10周年の2006年に日本代表、20周年でMVPと10年ごとに人生の節目がありますね』って言われて、あぁ、そうかと」
中村憲剛現役引退「僕の大好きな…ケンゴへ」byふろん太
川崎フロンターレ公式チャンネルにて現役引退発表当日に公開
引退後の活動で感じたフロンターレ
引退してからの5年間、中村がサッカーにあらゆる面から携わり、様々な人たちと仕事をする機会があったことは、観ていた方たちにとっては周知のことだろう。
「現役時代は、極端なことを言えば、家、麻生、等々力のほぼ三角形の狭いエリアで生活をしていました。それはある意味、プロとして当たり前の“狭さ”なんですけどね。だから引退後は、そこから外に出て、社会勉強をし、自分の知らないことを知り、視野を広げようと活動してきました。当初は、着地点や期間を設けておらず、計画的に考えていたわけではありませんでした。
その期間は、サッカーを盛り上げている方たちの熱量を知る時間でもあり、メディア、サッカー協会やJリーグに関わる方たち、普及や育成に携わってる方たち、様々な方たちとお仕事をさせてもらいました。その間に、S級ライセンス(現Proライセンス)を取ることができ、もちろんFROとしても、常にフロンターレに関わってきましたし、アカデミーの育成現場で、スタッフや選手たちと接する機会も定期的に設けていました。
その経験を通じて、得られた自覚やスキルは確実に僕の中にあると思います。そして、それらすべてをフロンターレに還元できるタイミングで帰ってこられたのかなと。久しぶりにフロンターレのことだけに集中できる生活に戻り、懐かしい感じがしますし、そこにアジャストしていくことで『フロンターレの中村憲剛』として帰ってきた感覚がしています」
現役時代は選手でありながらも、クラブのことを発信する立場も担っていた中村が、外から自分以外の人たちのフィルターを通してフロンターレを観たり知ったりすることで、初めての気づきも多かったという。
「まず、いろんな方たちがフロンターレに対してそれぞれに想いがあるんだなということを知りました。あらゆる企業や業種の方たちから『話が聞きたい』『一緒に何かしたい』と依頼を頂いたり、そういう想いがある人たちがたくさんいると知り、クラブの認知度や人気の高さには正直驚きました。
それと同時にリスクもあるなと思いました。以前は、自分たちから外に出て行って知ってもらおうと必死に動いていた時代がありましたが、認知度が上がったことで、今は待っていてもこのようにいろんな依頼が来るんだな、と。つまり、クラブとしての方向性など舵取りの部分は、その匙加減ひとつで、目指していたものからずれてしまう可能性もあるかもしれない。それはクラブが大きくなったからこそ生じる課題でもあると思うし、もちろん贅沢な悩みでもあるんですけどね」
そういう気づきを携えて、再びフロンターレの日常に戻り、クラブのことをよく知り、フロンターレらしさを体現してきた者として、大事にしたいことはあるだろうか。
「僕自身は、もう一回、地に足をつけてやっていくことが必要じゃないかなと思っています。もちろん、近い将来に等々力が改修されて収容人数が増えた際には活動を広げていくことも大事ですけど、今はもう一回、原点でもある地域密着、地域に根差すということも改めて考えて行動していきたいですね」
事業と強化の両輪
いいところを継承しつつ、変化も恐れないこと──。
それは、中村憲剛が選手時代に自ら目指したことでもあり、そのままフロンターレのアイデンティティでもある。
チームの戦いに目を向ければ、シルバーコレクターと言われ、悔しさをバネにタイトルをめざし、やっと優勝できた喜びや、そこに向かうことで育んだ一体感も知り、さらには常勝軍団と呼ばれる時期も経験した。
志は高く持ち、戦いに挑みながら、それでも勝負には勝敗がつきものだ。
引退した時に、未来のフロンターレのことまで心配し、今やるべきことは何かということや自身が願うことについて、こんな風に言っていたことがある。
「今は魅力あるサッカーを見せられて、優勝する強さがあり、黙っていてもチケットは完売しています。もちろん時代の変化もあるので、昔と同じようなことはやらなくてもいいとは思います。ただ、気持ちや熱量みたいなものは選手やスタッフには、変わらずに持っていてほしい。自分たちの立場をうまく活用して、もっと知恵を絞って面白いことをやっていってほしいです。
それは、サポーターや応援してくれるスポンサーの皆さんにも言えることだと思います。ずっと勝ち続ける保証はないし、どこかでノンタイトルの年も来ることがあるでしょう。その時に、それでも応援してくれる人がどれだけいるか。今の努力がその時に結果として出るのは過去の歴史からも分かっています。結果が出なかった時に、あの時にやっておけばよかったでは遅いんですよね。フロンターレのエンブレムをつける意味を選手もサポーターも川崎市の人たちも、スポンサーの皆さんも理解して、ひとりひとりがどう行動するか、だと思うんです。願わくば、温かい空気はそのままに、常勝軍団として、今の状態が続いてほしいし、それはみんなの努力次第だと俺は思います」
あれから5年が経過した。
あの頃の未来が現在になった今、どんな風に感じているだろうか。
「この5年、ホームゲームには、ほぼ行ってましたけど、なんとなく、ここ数年、等々力の空気感みたいなものは、若干変わったところもあるのかなとは正直感じていました。例えば、等々力劇場と言われますけど、以前はもっともっと、盛り上がりがあった気がするんです。また、優勝を知ったからこそ、関わる人も応援する人たちも高望みを当然するだろうし、それで結果が出なかった時に不満が出やすいという面もあると思います。
思い返せば、初優勝をするまでは何度も2位を経験しました。本当に悔しかったし、次こそは!という気持ちが原動力になり、積み上げた結果、2017年の初優勝がありました。優勝することを渇望していた一方で、ある意味、結果が出ないことに慣れていた面もあっただろうと思います。『またか』と思いながらも『次こそは』とみんなで力に変えてきた。その間には、一緒に戦ってきた選手が移籍したり引退していくなかで、僕自身はファン・サポーター、パートナーの皆さん、チームメイト、スタッフと一緒になって積み上げていった感覚がありました。
あの頃は、未経験だったが故にクラブ全体が右肩上がりに頑張れた強さはあったと思います。その後、タイトルを何度も獲った経験をしたことで、自分たちの理想と勝てなかった時の現実の乖離が生じた時に、我慢が必要な時期もあったでしょう。クラブを取り巻く環境や関わる人たちの視座が高くなったが故に、もしかしたら、当時は一緒だった目線にも若干のバラつきが生じたり、本当の意味での一体感を生み出すことが少し難しくなっている面はあるのかもしれないですね」
ノンタイトルだった時期も我慢強く信じて積み重ね、初優勝からタイトルを何度も獲った喜びの両方を知り、なおかつ、常にいい時ばかりではないという現実も知る中村ならではの実感だろう。
「フロンターレはこんなもんじゃないだろうって思う気持ちがあるのもわかるし、ここ数年の結果に対しては、みんな歯がゆさがあるんだと思います。昨年のACLEでの準優勝は久しぶりに経験したフロンターレにとっての2位で、僕自身も、そういう既視感はありました。
とはいえ、もちろん皆さんと同じように僕自身も優勝したいし、できると思っているし、今のフロンターレもそのポテンシャルがあると思っています。そういうことを目指しているなかでも、今後も時代を重ねていくなかで、苦しい時期もあったり、過渡期が来ることもあるかもしれませんが、クラブとしては、タイトルをめざしながら、自分たちを知り、粘り強く、地に足をつけてやっていくことも必要だと思います」
どんな時も強化と事業の両輪を回していく、という信念を貫くことで、やがてそれが“フロンターレらしさ”と言われるようになった。その両輪の中に、2026年の今年、中村憲剛の姿が戻って来たという面もあるだろう。
久しぶりに見た光景として、麻生グラウンドでサインをたくさん書く姿もあった。
「いろいろ事情もあるでしょうから、今は選手たちがサインを皆さんに書く頻度が減っているのは個人的には少し残念ですが、一方で、スタッフは公開日のファンサービスの時は無制限ということなので(笑)、すでにたくさん書きました!
引退したシーズンがコロナ禍でサインを皆さんに麻生グラウンドで書けなかったので、その当時のユニフォームを持ってきてくださる方たちも、ありがたいことにたくさんいました。今年は久しぶりに必勝祈願にも参加しましたが、そこでもすごくフロンターレの人気ぶりを感じました。でも、僕からすると、もっとそういう場面でも、選手たちにはギラついてやってほしいです(笑)」
2026年、30周年から未来へ
中村憲剛の人生とフロンターレは、これまでもそうだったように、これから先もまた、どんなドラマが生まれるのだろうか──。
「選手だった中村憲剛と、コーチとしての自分は、もちろんやれることもやることも違います。選手時代のように自分がゴールやアシストを決めることはできませんが、立場が変わっても、変わらず思っていることもあります。それは、フロンターレを選んできてくれた人たちが、このクラブを選んでよかったな、幸せだなと思ってもらえたらいいなということ。周囲の人たちと共に、自分がフロンターレにいる意義や意味を感じてもらえるように行動したいなと思います。
また、現役時代は、クラブのためになることや発信を何でもやってきました。そこも立場が変わったことで、当然関わり方も変わりますが、外から見ていて感じたところや、自分が気づいたことはクラブの中でも共有して伝えていけたらいいのかなと思っています。
コーチングスタッフの一員としては、やっぱり監督のシゲさんが勝つためにサポートしたいし、選手たちを成長させたい。選手たちには、今の自分に満足してほしくないし、もっと自分に期待して、もっともっと貪欲にやってほしいです。少しおとなしい面は感じていますが、そういうギラつきを出していけたらいいなと思っています。
もちろん、昔がよかったなどと言うつもりもないですし、今のやり方に即した変化も必要だと思っています。でも、誰しもがフロンターレはこんなもんじゃないという危機感も持っていると思うし、その中で、もしかしたら、どこかに大事なことが抜け落ちていないだろうか。その魂って何だろう、その根っこにあるものは何だろう。そういうことをみんなと少しずつ共有して、自分自身も周りの人たちから少しずつ共有してもらいながら、新しいフロンターレの歴史を、今度はコーチという立場でみんなと一緒に作っていけたらなと思います」
以前より中村は、「長くいる人のカラーがクラブカラーになる」とよく話していた。そういう意味ではフロンターレは、クラブ内の各場所に、長年クラブに携わっている者がいることは、紛れもなく強みのひとつだと言えるだろう。
「共通の話ができる人たちがクラブにいることはありがたいことです。それぞれ立場は変わりましたが、選手にも、コーチングスタッフにも強化部にも元チームメイトがいる。また、引退後に指導者として関わったアカデミー出身選手やロールモデルコーチや中央大学のテクニカルコーチとして関わった若手選手たちもいます。FRO時代も麻生グラウンドには定期的に顔を出していたので、知っている人は多いし、新しく人間関係を築いている人たちもいて、もちろん彼らからも刺激をもらっています。そういう中で、自分自身がどう振舞うべきかということは、現役時代と変わらず考えて行動しているつもりです。
僕の現役時代に比べると、選手の入れ替わりはどのクラブも時代的に早くなっているとは思いますが、大事な部分は変わらないのかなと思います。今のフロンターレも、悠、僚太、泰斗といった生え抜きやアカデミー出身の選手がいて、アキ(家長昭博)のように力のある選手たちが移籍加入して一緒にチームを作ってくれる。人は財産だと思うので、そういう選手たちがいて、若い選手がその背中を見て育つというのは、フロンターレのいいクラブカラーだと思います。それは、18年間クラブ一筋だった僕自身が、誰よりも実感していると思っていますし、そういう方向性はずっと変わらないでいてほしいなと思います。
すべては、タイトルを獲るため。クラブの目標として、そこはこの20年ぐらい変わっていませんから。
思えば、2006年にJ1で2位になり、あの頃、よく(伊藤)宏樹さんと『もう優勝ができるだろう』と話していましたが、初めてリーグ戦で2位になってから初優勝まで11年もかかりました。もちろん、ここ数年の順位は応援している皆さんにとっても、クラブの中の人たちも、もちろん僕自身も喜ばしいものではありませんが、もっとギラついてみんなでやっていきたいし、実際に30周年の今年、自分たちが獲るんだという想いでみんないると思います」
100年後のフロンターレも
最後に。
「未来のフロンターレファン・サポーターに伝えたいこと、その時、愛するフロンターレがどうあってほしいか?」と中村憲剛に聞いた。
「そうですね」と言って、呼びかけるように続けた。
そして、少し間をおいて、改めてこうまとめた。
「やっぱり、大切なことは、時代が変わっても変わらないんじゃないかなと思います。クラブとしても組織としても、根っこにある人を大切にするということは変わらないと思うんです。心底フロンターレでプレーすることを愛し、等々力でプレーすることが楽しみな選手たちがどれだけいるか。フロンターレでの日常がたまらなくやり甲斐があって、面白いと感じられるスタッフがどれぐらいいるか。フロンターレがある日常を楽しみ、幸せに感じているファン・サポーターがいてくれるか。そういうことはひとつのバロメーターになるんじゃないかなと思います」
もしかしたら、この文章を読んでくれている方の中には、50年後、100年後の川崎フロンターレファンやサポーターの皆さんがいるかもしれない。
その歴史の過程には、いつの日か中村憲剛が監督になる時代も通過点として訪れているかもしれないし、さらに、その先までフロンターレが続いていくとしたら、どんな風に語り継がれているだろうか。
フロンターレには中村憲剛という人がいたんだ。その人は、Bandiera Gateのモデルになった人なんだ。
等々力劇場を味わった未来の皆さんが、そんな会話をしているのだろうか。
profile
中村 憲剛
なかむら・けんご
1980年10月31日、東京都生まれ。
小学1年生から府ロクサッカークラブでサッカーを始め、小学5年生の時に全日本少年サッカー大会でベスト16に。
東京都立久留米高校(現・東久留米総合高校)では、キャプテンを務め、高校サッカー選手権東京大会ベスト4。
中央大学では、4年生でキャプテンとして臨んだ関東リーグ2部で優勝し、1部復帰を果たす。
プロサッカー選手になる夢と目標を追いかけ、2003年に当時J2だった川崎フロンターレに加入。
加入当初はトップ下だったが、2004年に当時の関塚隆監督によりボランチへコンバートされ、レギュラーに定着。
2006年、オシム監督時代に日本代表に初選出され、2010年にはワールドカップ・南アフリカ大会に出場する。
フロンターレでは長年キャプテンを務め、クラブ独自のイベントやファン感謝デー、地域密着活動などにも積極的に協力し、
クラブの魅力を選手の立場から発信し続けるなどピッチ内外で活躍した。
2016年に最優秀選手賞を受賞し、「フロンターレでタイトルを獲りたい」という悲願をJ2時代を知る最後の選手として2017年に叶えた。
前年に負傷した大怪我を乗り越えて復帰する姿も見せ、2020年10月31日に40歳でのバースデーゴールを決めた翌日に引退を発表。
2021年元日、クラブとして初の天皇杯優勝と2冠を獲得し、ワンクラブマンとして18年間の選手生活を終えた。
引退後は、メディアや解説での仕事、FROとしてフロンターレにも関わり、多方面で活躍する傍らS級ライセンス(現Proライセンス)を取得。
2026年1月、川崎フロンターレデベロップメントコーチ就任を発表した。